愛の花

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カテゴリ:本( 7 )

うたうように生き 生きるようにうたう⑦

5)吉本有里という生き方⑦
歌に魔法がかかる
20代前半
短時間で高収入のバイトへ この世の裏を知る 健康教室とS学園

「とまや」の次は無認可保育園「どろんこ」の保母さんの産休代理の仕事をしました。仲間も仕事も食事もよかっただけに、仕事環境が良くても早く帰って音楽がやりたくなってしまう自分自身に気がつき、これは、仕事時間を短縮しようと、短時間で高収入を得るアルバイトを情報誌などから探しました。面接を受けて正職員にならないか誘われ、職員になった職場が二つありました。

最初の職場は、健康料理の講義のアシスタント。人の良さそうな老夫婦が開業されていて、ご主人が仕事をしすぎて体を壊し、健康の大切さを痛感して職業替えしたとのことで、共感して職員になりました。ところが仕事は、講義の後、高価なステンレス鍋や羽毛布団を売ることで、あれっ?と疑問を感じましたが、そのうち、支払い催促の電話が各方面から入るようになり、給料も不払いになり、経営が傾いていることに気づきました。間もなく、コピー機などいろいろ使えなくなり、個人業主の脆さをまざまざと見せられたような気がしました。

公共の相談所に行くと、もらうものをもらってさっさとやめるか、つぶれるまで一緒に働くか?と助言されました。

え~??社会って?こんな大変なの?   

父が国家公務員で静かな守られた環境で育ったので、荒々しい現実に驚いたのです。何人かアルバイトさんがいて、話の通じる一人の女性と友達になりました。仕事の内容への疑問、給料が出ないことに憤慨しあって、それぞれに行動を起こしていましたが、他の人は、文句ひとつ言わないのも不思議でした。

わたしと友人は、できる限り払ってもらい退職することにしました。「ほかの人の給料まで取るのか?」と、言われましたが、それは言いがかり・・・、シンプルに交渉すると、お金の代わりに製品が渡されました。そのときいただいたステンレス鍋は実家にあり、今も大事に使っています。

次の職場は、不登校の子どもたちを対象にした私設の施設。「学校」認可されていないので、卒業しても中高の卒業資格は得られないのですが、授業料や入学費用をいただいて、〇〇学園と名乗っていました。

面接に行くと、正職員にならないか?誘われました。条件も仕事の内容もよさそうに見えて、職員になりました。ところが、日々の日課が、ホームスクーリングの手伝いと河原での野球だけ。子どもたちは、「たむろ」できけれど、本気で関わっている大人がいるわけではなく、理事長先生の指示したことを、顔色をうかがいながら表面をなぞっている感じでした。

精神科医を名乗っている理事長先生の言動に疑問を感じました。子どもたちへの本気の愛情が感じられず、職員への過剰なコントロールに、アルコール中毒では?と感じ始めました。
仕事が終わると、職員やバイトさんたちに有無を言わさず、ミーティングと称して飲みに連れて行き、飲んだ勢いで気に入らない行動への執拗な叱責が続き、誰も帰れなくなり帰宅が連日、深夜になっていたのでした。

ある日、わたしが初めて叱責の標的となった時、同じ話題、同じ叱責が繰り返されて、これにつきあってるのは無駄だと強く感じました。帰るための口実を探した挙句、「すみません。帰らせていただきます。」と、席を立ちました。

考えにない言葉が勝手に飛び出した感じでした。不毛な時間から退席するのに適切な言い訳が見当たらなかったのです。

みんな呆気に取られていました。
翌日、理事長先生も他の先生も親切でしたが、わたしは辞めることを決めていました。

肩書を利用して困っている方々からお金を吸い上げるような仕事の仕方、意見の言えない上下関係が作り出されて共依存になってゆくこと、小さな組織でしたが世の中の裏側を見せられ、学ばされてる気がしました。





by ainohanaMusic | 2017-08-16 00:28 | | Comments(0)

うたうように生き 生きるようにうたう⑥

さて、ちょっと間が空きましたが 自叙伝本の原稿シェアです。シェアすることで 読み手と一緒に 最後まで書き切れたらいいな~と思ってます。

2002年に、本を書く話があり、しかし 書くタイミングを逸して 今がタイミングか?振り返って書いてみれば
濃いですね。そのときは、一生懸命ですが、次々と未知なる体験が押し寄せてきて、起きることが半端なく 常識を大きく飛び越えてゆく。
まだまだ、プロローグの20代です。よかったら お付き合いください~

********

吉本有里という生き方⑥

うたに魔法がかかる
⑷バイト編 どうやって暮らす? 最初のバイト

大学を卒業して、8年くらい様々なバイトを遍歴しました。いくつかの職場で正職員も経験し、次第にバイトをいくつかかけもち+音楽という時代を経て、あるとき、自分の天職は「うた」しかないと悟り、すべてのバイトを止めて音楽に専念する時期が訪れました。状況が整ったわけではなく、自分の暮らしと表現を一致させることがわたしに回帰することであり、成長進化が起こることで、暮らしてゆくことができる時期がただやってきたのでした。

他の経験と同様バイト時代に得た気づきはかけがえのないもので、それがあって次があり、今があると思うのです。


さて、バイトを始めたのは、好きな音楽を続けるため生活費を稼ぐ、という差し迫った必要性があったからです。

大学卒業と同時に親からの仕送りは終了。また、うたうことが仕事になるとは全く思っていなかったので、どこかに自分の天職があるのだろうと探していました。ですから、自分の仕事ではないと思ったら居心地が良くても、
1年でやめるマイルールがありました。


最初のバイトは、小金井に暮らしていたころよく買い物に行った無農薬八百屋さん。バイトを探しに行くときに、買い物に寄っておしゃべりしてたら、うちで働かない?と誘われたのです。

遍歴したたくさんのバイトの中、ベストの環境&経験でした。触れたいことがそこにぎゅっと詰まっていたような。ただし、経験したことの意味が分かるのは、書いている「今」、30年以上たってから・・なんですね。あのとき教えてもらったことにこんな意味があったと、経験を積んで初めてわかることがあります。


ポランの広場という無農薬の八百屋グループが生まれたばかりの時代で、純度の高い志、みんなの心の熱さが伝わってくる職場。いのちを大切にする地球を愛する志が、流通の在り方を変えてゆこうと、「食べ物」を生産者から消費者に渡る道筋作りをしてゆく仕事でした。わたしを雇ってくれたYさんには、人材を育てようとする意識と懐の広さがありました。とまやという名前のお店で、交代に作るランチに、食材、野菜やパンやスパゲティーへの斬新な見方と愛情が現れていて、いつもびっくりドキドキ、したものです。


たとえば、酸味の強い硬い全粒粉の天然酵母のパンなどは、薄く切ってカリカリに焼き、オリーブオイルとネギ納豆や、ほうれん草のおひたしやら、ヒジキなどをのせてカナッペみたいにして食べました。和と洋が混じったアートのような食卓が、お店の食材で賞味期限の近づいたものを生かしてご馳走になる。その料理の速さと集中力、食材への愛情。店の裏で、美味しい食卓をみんなで囲むとき、ラスタヘアで、森の隠遁者のような若者、哲学者のような店主と相棒の男性、陽気で明るい店主の奥さんなど、スピリットのある人たちが集っていて、明るく面白いエネルギーが満ちていました。


仕事中に思いついてやることは何でも許容された自由度、愛の度数の高さが当たり前に存在していました。閉店した後のお店をライブ会場に貸してもらったこともありました。わたしは、店のみんなにインタビューして、八百屋便りのようなものを作ったり、痛んできたリンゴでアップルパイを作ったりしました。


しかし、肝心の店番では、お客さんへの対応、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございます」が自然に出てこない。お客さんに野菜を包んで渡すのもこれでいいのか???状態で、お店の常連さんたちに心が開かず「居場所のなさ」を感じていました。親に庇護されて学校にさえ行っていれば、あとは自由で、手伝いもせずに育ったわたしには、人や場所を支えてゆく経験値がなく、働く(はたを楽にする)精神性がまだ、宿っていなかったのだと思います。


Yさんは、「研修」ということで、東京にあるほかのお店の一日体験、生産者の農場や、「全体の会合」にも参加させ、つながりの全体像が見えてくるようにしてくれていました。Yさんが教えてくださったとうり、仕入れは同じでも、店によって雰囲気もやり方も異なりました。店のやり方は、自分でクリエイトするものでした。


泊りに行かせてもらった埼玉の農場の
K
さんは歌う人でもあり、ハーブを出荷していた妖精のような男性とバンドを組んでいて、わたしも一緒に音楽セッションに混じり、心底楽しかったのです。その楽しさは、自分がやりたい暮らしと音楽だったからなんだな、と「今」になって、気がつき驚きます。今 まさにKさんのような暮らしをしているのですが、農場ではなく自家菜園で、農家ではなくミュージシャンなので、そこもまた予想だにしなかったことで驚きです。

わたしがシンガーになり、自然と共に暮らし、野菜を育てることになるとは思いつきもしなかったほど、そのころのわたしは、頭で考えて行動していて、出口の見えない都会暮らしで、日々の小さな悩みに捉われていたのだと思います。

経験を通して成長し、必要のないものを手放すことができて、本来のわたしに回帰して、今の暮らしに至ったことが分かります。


わたしが引っ越しや、いろいろ葛藤を抱えて、お店の仕事に「やる気」が出てないのを見抜いたYさんは、「来たくなったとき来ていいぞ。」と、自由を与えた上に、引っ越しの手伝いに自ら車を出してくださいました。


お店をやめてもつきあいは続き、バイトを転々とした仕事はざかいきのときには、リヤカーを貸してくれて、店の食材を自分で自由に引き売りしてもいい~と、小さなお店主体験もさせてくれました。





by ainohanaMusic | 2017-08-13 22:55 | | Comments(0)

うたうように生きて 生きるようにうたう⑤ 憧れのミュージシャンとバンドを組む

今 原稿を書き進めている自叙伝本。
30代~50代が 非常に波乱万丈になってゆきますが、その前の20代のころ、わたしも忘れちゃってる出来事を書きながら追体験中。
みなさんのいろんな体験も重ね合わせながら 読んでくださるといいなぁ。
どんな体験も それがあっての「今」ですね。



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吉本有里という生き方⑤

憧れのミュージシャンとバンドを組む


大学卒業後、吉祥寺に引っ越して、かつてたくさんの音楽仲間に囲まれて音楽をしていたのに、周囲に仲間が一人もいなくなりました。
うたはどんどん生まれてくるけれど、当時のわたしの弾ける楽器はバイオリンだけ。伴奏用にコードをとることもできませんでした。一人では演奏活動は無理な状況。どうしたらいいんだろう?

ある日、思い切って、一緒に演奏したミュージシャンの中で 飛びぬけて素敵な音を出すスチールギター奏者の駒澤さんに今後の相談するために会いに行ったのです。彼の演奏は素晴らしくて、仲間たちも特別に敬っていた先輩格のミュージシャンでした。

実は、わたしの参加していた「よいしょバンド」を追っかけてビデオ撮影していた男性Dさんが、不思議大好きで、良かれと思って誘ってくれていたのですが、Dさんがらみで神さま事に巻き込まれ、わたしとOさん(元カレ)は一時大変な思いをしました。駒澤さんもその中におられて、同じ経験をされました。わたしは、その神さま事団体に参加するとあっという間に追い出されて、Oさんも一足遅れて追放され、駒澤さんは、最後に、自ら離れたとのこと・・・そのゴタゴタが収集して、やっと当時を振り返り、分かち合い、お互い無事でよかったねと、再会を喜べたタイミングでした。

「神さま」は、目に見えないから、ご神託の源は何者だったのだろう?巻き込まれたスピリチャルなゴタゴタは、スピリチャルから一歩距離をとるいい洗礼になりました。


月の光が美しい夜に、散歩しながら相談したのを覚えています。
わたしは自分のうたをうたいたい、活動したい。そのためには音楽仲間が必要だけどどうしたらいいんだろう?


駒沢さんが「では、誰と一緒に演奏したい?」と聞かれたので
迷わず、「駒澤さんです!」とポンと言葉が出ました。

そのとき、「月影」といううたが生まれました。
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月影
めぐりめぐる木々の精よ 月は照らす 地上をめぐむ
手のひらを そっと 差し伸べて 指先に いのちの流れ
あーここにー わたしはいるよ あーここにー あなたはいるよ

めぐりめぐる雲のゆくえ 胸に沁みる月の陰り               )
緑の丘であなたと二人 時の流れをここにたどる
あーここにわたしはいるよ あーここにあなたはいるよ

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駒沢さんは、知る人ぞ知る「ハッピーエンド」のメンバーでもあり、矢野顕子さんをはじめとして実力派の歌い手のバッキングミュージシャンで活躍されていた方ですが、あまりの忙しさに心身がおかしくなり、ツアーから逃亡して屋久島に籠り、その後 東京の無農薬八百屋で働き、そこで神様ごとに巻き込まれ、その後は用賀の音楽スタジオで独自の音作りをされていました。


それじゃあ、やってみようか。
と思いもよらない展開になりました。

ただし、駒澤さんのいう「やってみようか?」は、ライブ活動ではなく、スタジオでの音作りでした。

そして、多彩で面白いメンバーが集まり、わたしのうたの音作り&音体験が始まりました。わたしと駒澤さんを入れて5人。バンドの名前は「万華鏡」となりました。活動したのは1年、ライブは1回、レコーディングも1回。


ドラムは、チナキャッツという素敵なバンドのボーカリストのオハル。
彼のコーラスがくすぐったいくらい楽しくて、音楽はハートで、瞬間に自由になっていいと知りました。
繊細なうたをうたうSさんは、駒さんのお弟子さんでした。彼は、わたしに痛いほどのライバル心を持っているのが伝わってきて、本当にやりにくい存在でした。ベースのMちゃんは、わたしの友達。彼女はわたしのうたが大好き。笑顔があたたかくて、その存在に支えられました。そして、駒澤さんは重厚で緻密な音を操る哲学家のようでした。

1
年たって、ドラムのおはるが脱退。万華鏡の初ライブの日、自分のバンドもライブが入っていたのを諦めて「万華鏡」に出演。自分のバンドも家庭もあるのに、1年よく付き合ってくれました。おはるが抜けて、駒澤さんから提案があり、一時的にメンバーを入れ替え、音を見て、レコーディングに突入。わたしには、まだ分からなかった「音」による選別。自分のやり方も感性も、育っていなかった時代の後味の悪さも残る経験でした。

レコーディングの日は、いつもと同じで 日曜日の深夜12時にスタジオ集合。そのころ平日は、いろんなバイトを掛け持ちしていました。その日、スタジオに着くと、わたしは脱水症状になっていて、ペットボトルの水を3本飲んでも、立つこともできず、横になった状態でうたいました。

その後、万華鏡は、自然消滅してゆきましたが、1年、ほんとうに必要な体験をさせてもらいました。
都会で、週末の夜中12時に集い徹夜して、スタジオで音つくりをした日々。音の魔術師のような方、底抜けに明るいあたたかい仲間、妖怪みたいなヘンテコな人、いろんなタイプのミュージシャンとスタジオで引き合わせてもらい、そのたびに、びっくりしておかしくて、笑ってしまい歌えなくなりました。

学んだのは、音。面白くて楽しい、美しい、自在な音。人によって音は異なること。
そして、教訓は、一番好きなことを、後回しにすると、一番大事な時に力が出ない。
大切な友達とのかかわりは、遠回りでも時間をかけても優先させてゆきたいこと。

自分のハートの声を聞き、自分なりのやり方を見出してゆけば 長く続くこと。


好きなことを一番優先にする覚悟が決まりました。




by ainohanaMusic | 2017-08-04 22:07 | | Comments(0)

歌うように生き 生きるようにうたう④

吉本有里という生き方④

⑵バイオリンが上手になりたい


バンドのボーカリストでバントを率いていた
Oさんとわたしは、親密になりました。恋人というより兄弟、優しい兄貴にくっついていろいろ吸収し、彼はわたしの存在と独自性を面白がって世話をし、なんでも共有しました。

いつも一緒にいるのに、それぞれにアパートを借りてるのはもったいない。立川の古い米軍ハウスを借りて一軒家暮らしに移行。広いリビングは音楽室になりました。


彼は、わたしにうたが生まれるたびに喜び、支えました。アレンジ、演奏、カセットアルバムライブも編集しました。

しかし、いいものが仕上がらないのは、わたしのリズムと音程の悪さ。そして小さい時にいやいや習っていたバイオリンの音色の歪みが問題でした。美しくなかったのです。

ロックバンドのときは、激しくたたきつけるような音を出していましたが、わたしにやってきたうたは、シンプルで美しい世界でした。美しい音を出したいという願いが生まれました。

大学を卒業すると、ロックバンドの活動がストップしました。永遠に存在していると思っていた個性的なバンド。週末ごとにいろんなイベントに呼ばれて演奏していた人気のあった学生バンドでしたが、メンバーが、就職すると音沙汰なくなり、わたしは来ない仲間を待ってる状態になりました。音楽を続けるために就職しなかったのが、わたし一人だったのです。わたしは、音楽活動優先で、バイトで暮らすことに決めていました。

一番音楽に疎いわたしが、うたを続けることを第一優先に考えていたのが本当に不思議な現象に思えました。今思えば、わたしのうたは、生きることの意味を深めるうただったので卒業がなく、「反体制」のロックは、メンバーの就職と共に水面下に隠れ、一緒に青春を過ごしたOさんとも、一緒に何かを作り上げる時間がなくなりました。

問題があったわけでも、嫌いになったわけでもなかったけれど、二人でいても、ディレクションが違っているので、未来が見えてこない。彼はある市民団体の専従スタッフになり、帰宅が深夜。待っていてもなにも始まらない。自分の道を歩こう。引っ越しを手伝ってもらい、立川から吉祥寺に引っ越しました。彼と別れてから、一緒にいるときに受け取ったものの大きさに涙が流れました。わたしのうたを引き出し、育ててくれた人でした。

わたしはバイオリンをどうやったら上手になれるか、2年間所属していた大学のオーケストラの弦楽器のトレーナーさんに相談しました。

先生のシンプルな答えにびっくり。「上手になりたければ、一日6時間以上練習しなさい。」

バイトしてたら疲れてしまって、できないだろうな~と自分を知ってるだけに、答えはひとつ。わたしは一日に6時間以上バイオリンを弾くために、バイオリン演奏のバイトを探し始めたのです。バイオリンをうまくなりたいために、バイオリン演奏の仕事を探す。卵が先かニワトリが先か?いったい、わたしの頭はどうなっちゃってたのでしょう。(笑)


アルバイトニュースなど、隅々まで探して、「バイオリン奏者募集」を見つけて応募したのです。あるスナックが、音大生のバイオリン奏者を募集していました。これは、自分を追い込む荒療治となりました。

音大生でもないし、一曲も満足に弾けないのに、面接の為に「アベマリア」をにわか練習して、面接に通りました。

一日目のことは忘れられません。小さなスナックでスポットライトのあたるステージに出てゆく直前に、ピアニストの音大生から譜面がわたされました。わたしは、譜面を満足に読めないのです。初見で弾けるはずもありません。どのタイミングでバイオリンを弾き始めたらいいのか?自分の弾くメロディーすら分からない。ピアノの前奏を聞いてる間にサァーと額が青ざめるのを感じました。ちびまる子ちゃんが青ざめるシーンで、顔に縦線が入るのが、自分で目に見えるように分かりました。

その日をどうやって逃げ切ったのか?記憶にないのですが、翌日には秋葉原へ楽譜を買いに行き、映画音楽のテーマ曲を次から次へと練習して、その夜からは、自分からピアニストへ譜面を渡して、練習した曲だけを弾いて、数か月、なんとか勤めました。

スナックは、お酒を飲む男性について接客をする女の子と、先生と呼ばれ着飾って舞台で演奏する女の子に分かれていました。わたしは、必死でその時間のために練習したことしか覚えていないのです。また、マスターの探るような目も覚えています。

一日6時間弾くなんて無理だ!と思っていたのが 明日をなんとかしなきゃあと思うと、お尻に火がついたようにバイオリンを弾きまくる日々でした。心は臨戦態勢になり、暮らしに余裕がなくなり、3食外食の日もありました。自分にエネルギーを入れるために、ステージ前に、ひとりで贅沢なコース料理を食べたことも覚えています。音大生にとっては、あのバイトは簡単な短時間、高収入のバイトだったと思うのです。しかし、音楽教育を経ていなかったわたしには、ものすごいハードルの高い仕事でした。

しばらくして、オーナーもさすがに、変だと思ったのでしょう、首になり、しかし、また、懲りずに次の仕事を探しました。次の仕事は、大学時代のオーケストラのトレーナー「一日 6時間以上弾くこと!」とアドバイスしてくれた先生に、紹介をお願いしました。


ふたつ目のバイオリンバイトは、新宿の歌舞伎町の社交ダンスのホールで、ラテンバンドのバイオリン奏者の仕事でした。やはり最初は譜面が読めず、ついてゆけない。弓の上げ下げだけ腕の動きを合わせて、実際には音を出しませんでした。第一バイオリンのおじいちゃんがすぐに気がついて、特訓が始まりました。30分本番、30分休憩を
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セットの仕事時間に、休憩を返上して特訓をしてくれたSさんは わたしの尊敬するバイオリンの師匠となったのです。

Sさんのレッスンは、次のステージが弾けるように、という応急処置ではなく、基本中の基本、右手と左手の楽器の持ち方から始まり、ボーイングという右手(弓)の運び方、簡単な音の音程の正確さ、イロハのイから始めてくださいました。Sさんは、音楽を心から愛し、一生音楽を続けてゆける心の在り方を伝授してくれたのです。

家にレッスンを受けに行くようになり、そのとき、耳を引っ張られて「これはなんだ?ロバの耳か?」と何度も注意されたのを懐かしく思い出します。「音楽家は、これでいいと思ったらおしまいだ。もっと正確にもっと美しく、その探求心が人を一流にしてゆく。」

また、わたしが両親から買ってもらった
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万のバイオリンを仕事にふさわしくないと婉曲に言われ、バイオリン購入を勧められました。そのとき初めて気がつきましたが周囲にいたプロの皆さんは、200万円以上の楽器で演奏されていました。わたしは、Sさんにお借りしていろんなバイオリンの音色の違いを体験して、それぞれのバイオリンの音色(性格)についても関心を持つようになりました。

Sさんは、もともとわたしの「先生」として わたしの人生に登場したわけではないのですが、音楽をこよなく愛する心が、音楽を探求し始めた新米のわたしを発見して、惜しみなくスピリットを伝えてくださったと思うのです。

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by ainohanaMusic | 2017-07-28 00:58 | | Comments(0)

歌うように生き 生きるようにうたう③

吉本有里という生き方③


第二章 うたに魔法がかかる  21才のわたし

⑴ ソロコンサートのオファー


最初の歌がやってきて間もなく
O
さんが、レギュラーでうたっていた渋谷のアピアというライブハウスのコンサートにバイオリンでお手伝いに行くことになりました。初めての世界。なにもかも新鮮!お客さんが入る前に、出演者がリハーサルをするのです。音響の調整とか照明合わせとか、アピアのマスターが全部を仕切って世話をしてくださいました。Oさんが、自分の演奏時間の中に、わたしがうたう時間をくれて「花びら流れて」をうたったのです。すると、マスターは、若葉マークのついたみたいなわたしに、思いも寄らない言葉をくださいました。

「君は歌心がある。今度君のソロコンサートをやりましょう。」


アピアで行われていたライブは、一晩に
3
組のシンガーがジョイントするコンサートでした。

3人の中の一人のアーチストとして、4~50分くらいの時間をいただき、お客さんからお金をいただいて歌をうたう。お客さんは、3組のアーチストのそれぞれのファンだったり、応援部隊だったり。


1
曲しか歌がなく、音程もリズムも怪しいド素人のわたしには、ありえない話でしたが、なんだかできるような気がして約束をしました。そして、約束した三か月後には15曲のオリジナル曲が生まれていたのです。


その間に夏休みがあり、友だちと一緒に、東京から沖縄へ船旅をしました。船で揺られて3泊4日に、船人たちよ♪という言葉とメロディーが湧いてきて、その後も、うたおう踊ろう♪悠久の響き♪花の香♪おまえよ♪等々、次々と新曲が生まれました。

 感じていたことが歌になり、共感を得ると世界があったかく開かれてゆく。新しい歌が生まれるたびにOさんと仲間たちが喜び、アレンジ   してアンサンブルして、世の中に出せる形を作ってくれました。


沖縄では、突如思い立って、シンガーの喜納庄吉さんを訪ました。庄吉さんは、ラジニーシ(瞑想家)の弟子になっていて、仲間たちに囲まれて一緒に暮らし、みんな赤い服を着ていて圧倒されました。わたしと女友達の二人の訪問を「ずっとこのまま暮らすか?」と面白がって泊めてくれて、数日後、みんなで建設したライブハウスのオープン記念パーティーに参加することができました。庄吉さんのバンドメンバーに演奏を手伝ってもらい、花びら流れて♪を歌いました。


オリジナル曲をうたう時、そこには「わたし」が存在していました。「多勢」に合わせて自分を消すことで「仮の宿」のように感じる地球をやり過ごしてきたわたしが、歌が生まれたことで、自分を消すのではなく、自分をありのままに表し、人と繋がれるようになったのです。わたしは、自分の故郷が、遠い星にあるような気がして、地に足をつけられずにいたのだと思います。


アピアの初ライブは、総勢4人の楽団になりました。わたしの通っていた大学には音楽科もあり、校内ですれ違った打楽器の友人に手伝いを頼み、友だちは快諾。
O
さんと笛とキーボードの達人Sくん、熟練した音楽家の作り出す音が組み合わさって世界が膨らみ、一方では、自分の表現力の未熟さが申し訳なくなりました。

うたい始めた当時のわたしは、未熟で力んでいましたから、ライブがその後も続いたことは、奇跡。

仲間たちの演奏の支えと、お客さんが、可能性を感じ取ってリピートしてくれたこと。わたし自身も、うたを、与えられた宝物と感じていたので、下手でも、恥ずかしくても、続けることに揺らぎはなかったのです。


お客さんが、「有里ちゃん、肝心なところで声ひっくり返らないでね。癒されたいと思ってきてるんだから。」等々、伝えてくれて、聞く側の気持ちが分かり、がっかりさせたくない~と、自分なりの努力を始めました。


教職に就こうとしていた世界は、個人的な道だったけれど、歌い始めた世界は、仲間が期待して待っている、愛の後押しのある道でした。

振り返ってみると、うたをうたうことで、本当の自分に帰って行ったのが分かります。

ライブでは、上手にやろうとすると、力が入ってうまくいかない。等身大で空っぽになってお任せして歌うとなぜかうまくいく。初期のころのわたしのステージでのマントラは「空っぽ、空っぽ」でした。

また、日々の努力を怠らないこと、諦めないことを学びました。上達はゆっくりなのです。変化がないように見えても、ある時、高跳びを飛ぶように、飛べるようになる。じっくり、地道に取り組んでゆくと、いつの間にかできるようになっている。

そして、理想をうたうのではなく、うたってる通りに生きることで、うたに魂が備わることに気づき、うたうことは、生き方を整えることと知りました。過去に培った価値観を手放し、手放し、未知の体験にチャレンジし生まれ変わり、与えられた歌をうたえる自分であるためにも、自分の本心のとうりに生きることを身につけました。

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           (渋谷アピアでのファーストソロライブ)


by ainohanaMusic | 2017-07-28 00:54 | | Comments(0)

歌うように生き生きるようにうたう②

吉本有里という生き方②

訪ねたコミューンは、もうすでに消滅して人々は島の村人になってそれぞれの場所で暮らしていましたが、島は静けさと自然が満ちて平和でした。わたしはコミューンの跡地の竹の小屋に、寝泊まりして、一回り年上の若者とかまどを共有しご飯を作り、島の子どもたちと遊びながら、元コミューンの島人にインタビューをして回りました。

そんな日々、竹の小屋に夜這い。月明かりで誰かが、笹の間を歩き近づいてくる音で気がつき、直観で対処し、逃げ切って、その怖さが、わたしに旅を次に先に進めることを止めました。

大学新聞の仲間たちからは、「もう帰ってこないかもね。」なんて冗談を言われて送り出されたのです。(笑い)どこか、自分の暮らす場所を見つけて自然な暮らしに回帰してゆきそうな本質が そのころからあったのでしょう。けれど、「鍵のない家」「なんでも共有できる自然を大切にするエコロジカルな暮らし」、その項目の中に、異性に対してどう対処したらいいのか、知識も欲求もなにも分からない硬い殻の中の自分を発見したのです。

大学に戻って、守られた暮らしの中で、男の子たちから誘われるデートは楽しくて行くけれど、女性として見られ求められると、とたんに拒絶反が出てくる自分がおかしいのかも?気がつき始めました。親しくなった男の子たちが、わたしに交際を申し込んだり、行動を起こすと拒否反応が起きて会いたくなくなる。その自分が当たり前だと思っていたけれど、あたりまえではないかも?未知なる世界へ扉をあけるスイッチが入ったのです。

そのとき一番身近にいたバンドのボーカリストのOさんと自然な成り行きで、つきあい始めました。まだ自立していなかった時代、兄弟のような距離感で、わがままを通し、甘えて世界を広げました。また、いざという時は、知識も経験もない自分の方が彼よりも揺るぎのないことも知りました。

そして 春・・・
満開の桜の木の下で、いのちの渦に わたしは遭遇しました。



毎日挨拶していた木々は 桜の木だったのです。
花びらがいっせいに散り、花吹雪になった夕方、それを知らずに、ふと公園に足が向きました。

花吹雪の真ん中にわたしは立っていました。花吹雪は、息をのむほどの美しく、花びら一枚一枚が、くるくると舞いを舞って、いのちを惜しむように、なかなか地面に落ちてゆきません。

この渦の中では、人も舞うのだろうか?
ふと疑問が湧いて、力を抜いて手を差し伸べてみました。
手のひらがくるくると舞いだして、体も、くるくると回り始めて・・夕闇の中、花びらと一緒にわたしは、踊っていました。

目が回ったので、ゆっくりと足を踏ん張り、歩き出した時、胸の奥からなにかが押しあがってきました。

生まれて初めてのうたが、一番から二番まで、唇から出てきましたが、それが、あまりに唐突な出来事で、なんだかわからなかったのです。ただ、唇からこぼれ出てきた言葉とメロディーを繰り返し歌いながらアパートに帰りました。

花びら流れて

花びらを数えては風を感じてる
花よ 花よ いつまでも散り続けてゆけよ
寂しさのせて 散ってゆくんだよ
仲間たちも後から来て追っかけてゆくよ

花びらを数えては風を感じてる
花よ花よ どこまでも吹かれてゆけよ
この野原で わたしも 踊り続けてゆくうちに
闇に溶けるよ


アパートに帰ってカセットテープに録音して、Oさんに聞いてもらいました。彼は、とても喜んでくれて、「これは、歌だよ。」と、教えてくれました。当たり前のことが、あまりにも不思議に感じたのです。「これが、うたなの?」

O
さんが、気に入って伴奏をつけてくれて、わたしは、歌うようになったのです。
以来、うたはずっと、聞こえてくるのです。

わたしの仕事は、自分らしく生きること。 そうすると、歌が、やってきます。
わたしの暮らし、わたしの心、出会った自然やいのちの声が流れ出てくるのです。

うたは、わたしの暮らしであり、心であり、出会いであり、未来のビジョンであり、浄化であり、今ここすべてなのです。

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                 (学生時代 バンドでイベントに出演 楽屋でのひと時)


by ainohanaMusic | 2017-07-27 23:46 | | Comments(0)

本を書き始めました

2002年、カリフォルニアから日本に帰国してすぐに出版社から自叙伝の出版の話がありました。
子どもたちが、6歳と8歳で、シングルマザーになったばかり。音楽活動と畑と子育てで手いっぱいだったので、そこまでエネルギーが回せず延期して早15年。やっと書けそうなタイミングが来ているような気がします。

書き始めた原稿を、フェイスブックで紹介しています。もう⑩まで 出しましたよ。
ブログでも紹介しますね。どこまで 公開するかは、まだ決めていないのですが、最初のいくつかの章は公開して みなさんの感想を聞きつつ進めたいです。

*********
【フェイスブックに書いた記事より】

やっと 15年越しで 再び書き始めたよ。
「歌うように生き、生きるようにうたう」
~吉本有里という生き方~①

とても地道で、不器用な生き方から、歌声が育まれてきた。声はずっと変化し どんどんとうめいになってゆく。

...

途中で止まってしまわないように、
原稿をフェイスブックに公開しながら、

完成までの道を歩こうと思い
第一章を公開してみますね。

一章は、すでに書いたブログの文章の大幅手直しです。


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うたうように生き、生きるようにうたう  吉本有里という生き方

うたう人生の始まり

うたう人生の始まり・・・満開の桜の木の下で踊った吉本有里という生き方①

中学校の社会科の先生になることを目指して進学した大学。

父親が教職で、身近で会ったことと、中学の国語の先生が明るくチャーミングな方で、大人になったらあんなふうになりたいと憧れました。知ってる職業の中では自分を生かせるかな?と決めた道でした。

親元離れて2年目。真面目に通っていたある日、教室に入るとエネルギーが落ちる自分を自覚しました。

思わず、教室に入って出て、入って出て、を繰り返し自分のエネルギーの上がり下がりを調べてみたのです。
 
あ~教室そのものが、わたしに合っていない!・・・・・教職に就くのは、わたしには合わないかも?といきなり!!・・・・・・確信してしまった瞬間でした。実際、困った~、と思いました。無難にのっかてるこのベルトコンベアーから降りて、いったいどこにわたしがわたしらしく生きて、暮らしてゆける道があるのだろう?

わたしの母は、学生時代から結婚するまで、アナウンサーやお芝居などに才能を発揮し、社交的で魅力のあるクリエイティブな女性でしたが、結核を患い長期入院で結婚を諦め、作家の道を志したらしいのです。しかし、母の親友が自分の婚約者の親友(父)と合うのでは?
ひらめき、お見舞いに連れてきて策略的お見合いで、二人はまんまと恋におちて、結婚した後は主婦になりました。

そんな母の口癖は、「女性でも仕事を持たないと、いけないのよ。そうしないと家庭の中でも、発言権がなくなるのよ。」
頑固で融通の利かない父に守られながらも、自分の思いや直観が通らず生かせないことがずいぶんストレスだったのでは?と思います。

それで、無意識に、仕事を持つことを、わたしは始めから決めていました。

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人生の方向性が急にわからなくなってしまい、大学へ行かず、やることがないので、とりあえず、朝は、公園で走りました。広い公園を木々の肌をたたきながら「おはよう!」と挨拶をして走り、木の下で体操をして、太極拳をしてアパートへ帰りました。

夕方には大学新聞を作るサークルに足が向きました。そこには、憧れていた人がいて、自分の興味を追求できる場所でもありました。その人は、強烈な個性の持ち主で、嫌いと好きが混じって惹きつけられていました。そんな人は後にも先にも彼だけです。その彼がある日、唐突な提案をしてきました。

「有里、Oさんの結成したバンドに、女性ボーカルが必要なんだって!!行ってこいよ。」

 彼は、0さんを敬愛していたのです。なにも分からず、指示されるままに行ってみました。彼の言葉は、わたしには強い影響力がありました。

わたしは、生でロックを聞いたこともなく、すざまじい大音量にびっくりしました。そこでうたうのはムリ。でも、彼らの表現が、半端なかったのです。社会的なメッセージをシリアスに、時にはコミカルに、言いたい放題、音に乗せて自由にシャウトして、生きのいい魚みたい(笑)、楽しそうでした。こんな表現方法があったんだと、目がひらかれた思いでした。

吸い寄せられるように、練習に出かけ、自分の声は聞こえないので、バイオリンだったらどうだろう?と、バイオリンを持ってゆきました。バイオリンも音が聞こえず、マイクに通してもうっすら聞こえる程度。ではどうしたらいいだろう?調べて、ピックアップマイクを買い、とりつけて、弓をたたきつけるように激しく弾き、その解放感が、病みつきに。バンドのみんなも、バイオリンとヘンテコ女の子がバンドに参入したことを歓迎してくれたようでした。

3つの違う大学から集まってくるバンドの仲間と、わたしを入れて4人。何度も徹夜で練習。既成概念を外したアレンジが出来上がり、共同創作の楽しさを知り、自主ライブが始まり、エネルギーの渦の中で、草の根の様々なイベントで演奏するようになりました。

大学は、試験だけ受けに行きました。親に仕送りしてもらっていて、次の目標もないのにやめるわけにもいかない。出席日数が足りなくなり単位を落とし、留年する悪夢もよく見ました。今でもその夢を見るくらいです。人生のベルトコンベアから落っこちそう、先の見えない不安な日々に、でも、ほんとにやりたいことだけをやったのです。
 
公園を走り、太極拳をして、ロックバンドの喧騒のなかで思い切りバイオリンをかきならし、大学新聞にも関わっていました。
 子どものころから、環境を破壊してゆく現代文明に疑問を感じていたので、玄米とかコミューンに関心が向き、大学の新聞会の一員として、南の島のコミューンに一人で、取材に出かけて記事を書き、エコロジカルな生き方をしている人たちと出会い始めました。

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 (写真 大学時代のバンドで イベントに出演中)


by ainohanaMusic | 2017-07-27 23:41 | | Comments(0)