愛の花

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母の旅立ち

5月26日朝10時、静岡は藤枝市の自宅で母は79歳の人生を全うし光に移行しました。ガンを告知されて2カ月目のことでした。

最後に会ったのが5月12日~15日。旅立つ日も近いことを感じて、3日間は母の枕元で1日2時間くらい歌いました。歌は波動・・光の世界に旅立つ心の準備が整うように、わたしのできることは、歩けなくなっている母のトイレ介護やお料理、お掃除の他は、歌うこと。わたしが歌手であることを長年、快く思っていなかった父も、気持ちよく歌わせてくれていました。そして、母の最期を看取るつもりで 27日から 6月の3日を調整して 静岡で過ごす予定にしていました。

でも、母はすごい~・・わたしが到着する前日に あっさりと旅立ったのでした。「自分は大丈夫、でも お父さんをよろしくね。」 と、一人になった父を任せるかのようなタイミングでした。50年連れ添った母を亡くした直後の父の新しい暮らしをサポートするために滞在する1週間となりました。

長年、肺を患って夜は呼吸器をつけて眠る母の下腹部にしこりができて、病院に検査に行ったのが3月25日でした。偶然、静岡に帰っていた わたしが、検査に着き添いました。
 検査の間、東京の妹と電話でやりとりし、 まさか、癌の末期とは 予想していなかったけれど、どんな病状でも、両親の願いである「自宅療養」を、医師に伝えようと 心に決めていました。
母は わたしたち双子姉妹が2歳半の時、入院して1年半家に帰れず、大切な時間を家族と隔離されたことを 心から悔やんでいました。以来、病弱な身体を労わりつつ なるべく病院と関わらずに生きていました。

検査を終えた担当の医師から、遠まわしに「もう手の施しようがありませんし、これ以上の検査や治療は身体の負担になるかと思います。それでも治療を望みますか?」 と聞かれました。
 普段の暮らしでさえ、もう心臓に負担が大きくなっていたので、
「治療は望みません。両親ともに自宅での療養を希望しています。」

医師に、こちらの気持ちをまっすぐ伝えるわたしに母は怒りを感じたようでした。

「先生の一番いいようにするのよ!先生が一番いいと思うやり方でいいのよ!」と、母。
・・・母は、母の意見や希望をはっきり持っているのに、自分の最期を人任せにしようとしている・・

世間の尺度に合わせてしまい、後でストレスを感じる母には、母の考えや願いがちゃんとある。

「先生には、本人の望みはわからないよ。一般的なみんなの望むことと、病院にとって都合のいいことが優先されてしまうよ。お母さん、お父さんがどうしたいかが、一番大事だよ。伝えれば、尊重してもらって一番いいようになってゆくよ。」」

病弱な自分の身体に、得体のしれない腫瘍と腹水までできて、どうにもならない不安と、もう人生を終わりにしたい怒りが混ざって捨て鉢な気分も混じってたような母でした。大切な決断の時に 母に付き添えて 良かった。

最後の2か月を 母たちは家で普通に暮らすことを選択し、「一日一生」と、励まし合いながら 夫婦で共に支えあい生きたのでした。
 
「この2カ月は 泥沼だったけれど(看護する方も身体が持たないかもしれないという)、夫婦の間に今まで経験できなかった実感を持てた。この体験は大きい。」と、父は言っています。どんどん進行してゆく癌を目の当たりにしながらも、2年、3年生きれば 儲けもの~と楽観的に捉え、悲壮にならず 1日1日 楽しく生きようと心を合わせていた両親でした。
さまざまな民間療法を真剣に試し、直そうという意識はありました。死の淵から生き延びるには、死を超えてゆくくらいの生き方や発想を変えてゆくチャレンジが必要だとわたしは感じたのですが、母たちは そこまではなかったけれど、今までの夫婦関係の在り方を完結させるくらいの濃い日々をわかちあっていました。

父の献身的な介護、母のけなげな生きようとする姿、そして鍼灸師の妹の献身的な治療・・・家族がひとつに結ばれていきました。母は最期の10日間くらいは、歩くことも難しかったけれど頭はしっかりして、食事も前日まで食べていました・・痛みもなく、長年 患っていた呼吸の苦しさと心臓への負担、身体の衰弱で、父がその朝 トイレ介護を終えたあと、2階に布団を運んでいる間に 1階のベッドで、息を引き取ったのでした。昏睡状態になることもなく、日常の中で 気がついたら亡くなっていました。

母が旅立った翌日、父は、母の最期の手紙を引き出しの中に見つけました。

いやな顔一つせず、母を看護した父への感謝と、愛の言葉が そこには きちんと書かれていました。
わたしと妹へは、「4人の孫たちは仲がいい。 一生付き合えるようにしてください。」と書いてありました。

魂はお墓の中にはいないけれど、両親や祖先を 集って想える場所があればいいなあ~、草花が大好きだった母、山の好きな父、ふたりで並んで眠りたいと母は言っていました。ふさわしい場所を わたしの暮らす長野の山里に 家族で作っていこうかな。延命処置、お葬式はしないで~というのが 母の手紙の最後にありました。お葬式という形には納まらないオリジナルな追悼。自宅で亡くなり、その後も父を支え家族でたびたび集う日々の中に結実しそうです。

さて、母は最期はお念仏を心の中で唱えていました。
「南無阿弥陀仏」
思惑を超えた偉大なる光に全任する・・・
「かけこみで 唱えて 間に合うかしら?」と 亡くなる直前に 母は妹につぶやいたそうです。

不思議ですね。宗教を持たずに現実主義を通していた母も、その言葉を最後の切符に 光の世界に旅立ちました。


母の思惑を超えていた娘たちだったと思います。けれど、わたしたちを ありのままに愛してくれた母でした。そして母にとって父は やはり思惑を超えていたと思います。その父を愛して、自分自身が変わってゆくことをチャレンジした母でした。

母は、40歳くらいまで 人を引き付ける「花」がありました。
妹が いつも友人に囲まれていた母に尋ねたそうです。
「お母さん、お母さんは 友人を選ばないの?」

母が言うには、母の周りにはいつも人が集ってくるので、その人たちに対処するだけで全部のエネルギーを使ってしまうから 選ぶ余裕はない~・・・と。けれど、晩年は 母の体力の衰えもあって、母がつきあったのは家族だけでした。

母は文才や芸術的な能力がありました。けれど、それを、友人や家族をありのままに受け入れてゆく日常に使ってゆきました。そんな生き方も あったんだね。ありがとう。お母さん、わたしが、今、こうして 書いていることも歌っていることも 母の受容の海の中で育まれていったんだね。

わたしたちを産み育ててくれて、愛情を注ぎ、そして今も愛してくれてありがとう。
病弱なお母さんにとっては マラソンのような79年だったね。ようやくすべての行程を走り抜けて ほっとしているでしょう?

不自由な身体から抜け出て、光になったお母さんの旅立ちを心から祝福します。



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母が骨になって自宅へ帰ってきた翌日の今日、父と妹と 海へ行きました。

「この10年、母の療養生活(肺を患っていたから)ばかりで、海を見ることもなかったでしょう?行ってみようか?」

海の風は やさしいね。

今日は、両親と共に訪れた思い出の場所に、父と行く予定です。

光の身体に還った母も、一人になった父も それぞれにほんとうの自分自身へ還ってゆく大切な このときを
こうして娘として付き添えるご縁に感謝です。

そして、学校に行くために長野に残っているアマチや八星、二人の子どもたちを気遣い 訪れてくれてる友人たちにも感謝です。
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ありがとう。
by ainohanaMusic | 2010-05-29 00:41 | 心の旅日記 | Comments(0)